「君たちはどう生きるか?」昨年、映画化されました原作・映画はみられましたか?
私は機を逃して、見損ねました。
さて、早いもので30歳ももう目の前。こういう機会もないと過去は振り返らないので、「20代をどう生きたか?」振り返ろうと思う。
一言でいえば激動。就職、結婚、そして山。
狂ったように山に行き、気づいたら結婚をしていた。
学生の頃の自分は、将来の自分がこんなにもアクティブになっていることを想像できただろうか?今の自分が在るのは過去の選択と経験の積み重ねと思っているので、1年毎に辿って行こうと思う。
誰のためにもならない駄文に長文、こんなの読むんだよという気しかしない。
20歳(2014~2015):分岐点①父の死と就職。
いきなり重たいですけど、一番大きいのは父親の死。在学中から通院・闘病生活。
国家試験や就活をしつつ看病する日々。精神的な持病を拗らす母。
まもなく30歳を迎えますが、精神的に一番しんどかったのはこの時期だったかもしれない。衰弱していく父、やつれていく母。姉は大学進学しており県外。
とはいえ自分もまだ19歳。できることは限られる。
ちょうど今の会社に内定をいただいた時期だったが、そういった家庭の事情もあり内定辞退させていただこうかと思った。そんな中父に「お前の人生だ。その会社に就職しろ」と言われたのは今でも覚えてる。癌が全身に転移してしまっており、11月に他界。せめて俺が卒業するまでとギリギリまで働いてくれた父に感謝しかない。
父が亡くなってから、それからどうやって生きていたかは正直ほぼ記憶にない。
ただ、精神的にだいぶしんどく、内定もらった後は割と不登校気味になっていた。
せめて成人して就職する姿を見せたいとか、酒を一緒に飲みたいとか子供心ながらに思ってたなぁ。
父の死も当然ながら、一番しんどかったのは親戚や周りの人々からの「お前が頑張れ。しっかりして家を支えろよ」という言葉。
いや、まだ学生だし、生前も自分なりに色々しましたよ。父の後追いをしようとした半狂乱の母を何度も止めたし。学校やバイトから帰るたびに「二人とも生きてるかな?」と安否確認の日々。それを経て父親の死。
今思えば自分の人格形成の大きな点はここにあるのかなと思う。
何か悲しいことがあっても「仕方がない」と割り切るだけで悲しいという感情はほぼ無くしたし。その代わりに、「与えられた環境で何とか生きる。」という力は身に付いたように思う。
時はたち、鹿児島の専門学校(無線科)を卒業し、社会人として新たな人生を進めることになる。
普通はじめての一人暮らしと言えばホームシックになったりしたりするとも聞くが、一切そんな感情はなかった。むしろようやく解放されたなという気持ちの方が大きかった。
さて、船舶関係の弊社の事業所の大半は太平洋ベルト上(博多、北九州、広島、大阪湾、伊勢湾、東京湾など)にある。その中で私が配属を命じられたのは"大分県"
辞令をいただいた時には地理感も曖昧で「ん?大分?福岡の横よね?あまり大きい港のイメージはないけど・・・」と思ったのを今でも覚えている。
ちなみに、今の私からイメージはつかないかもしれないが当時の趣味はネトゲとアニメ。深夜までボイスチャットを繋ぎゲームをしているようなタイプだった。
まさかこの配属がここまで私の人生を大きく変えるものとは思いもしていなかった。
社会人1年目で中古で車を買い、自動車税やらローンやらでカツカツだった日々。今までで一番の貧乏生活。食費は2万代で凌いでいた気がする。
また、そこまでどっぷりアウトドアにハマっていたわけでなく、あくまでまだぴちぴちのハタチ。お酒も飲みたいお年頃。ただ大分に一切の友人がいなかった僕はmixiの社会人飲み会サークル的なのに入り、飲み歩く。そのツテで知り合った知人がバドミントンをしており、バドミントンを始めることになる。
あ、学生のころから付き合っていた彼女と別れたのもこのころだった気がする。
21歳:分岐点②アウトドア(キャンプ)を始める
まだ普通に街の人として生活をしていた時期。
デスクワークの日々。当初は学生の時と同様、ネトゲにいそしんでいた。
しかし、毎日狭い事務所でモニターとにらめっこ。外で遊びたい!!
職場のOJT担当の先輩(いまや素晴らしい山のパートナー)と「よし、キャンプをしよう」と延岡のキャンプ場へ。そして、キャニオニング。これが僕の山人生の始まりであった。今思えばキャンプ場は傾山の麓の中岳キャンプ場。キャニオニングは藤河内渓谷であった。今でも好きな釣りや沢登りでよく行くエリアだ。
初めてキャニオニングのツアーに参加し、港町で育った私にとって、泳ぐ=海。川で遊ぶのはこれが初めてだった。渓谷の森の美しさ、水のきれいさに感動。ガイドさんが言っていた「ここら辺は花崗岩の一枚岩だよ。」という言葉の真意に気づくのにそう時間はかからなかった。
また、バドミントンサークルにいくつか入り。(最大週3ぐらいで練習してたかも?)
このころからmixiのサークルからは縁を切り、バドミントン仲間と飲みに行ったり釣りに行ったりとしていた。ぼちぼち大会にでてみようと思うが結果は惨敗。多分バドミントン向いてない笑
あと、バドミントンサークルつながりで彼女ができる。
彼女とデートをしたり、ライブに行ったり、キャンプにいったり。
ここまではちゃんといい感じの20代。
しかし、キャンプを重ねていくうちにだんだんを自然にのめりこむように。そして芽生えたのは「山に登りたい」という気持ち。
数回冬のソロキャンプを経験(時代先取りしてね??)した私はおそらく根拠の無い自信があったのだろう。職場の先輩K氏と冬の由布岳に登ることに。(2015/1)ちなみに二人ともまともな登山経験はありませんw
今思えば地図も読めない、チェーンスパイクも持ってないしで中々無謀な登山者ですね。ハンセイシテマス。ただ、鹿児島の出身の自分にとって雪景色は初めてで「あ、山に登ったらこんな素晴らしい景色がみられるんだ」と感動した。
ちなみに初登山のくせにブロッケン現象を見ることができた。そりゃはまりますね。
それからも由布岳やくじゅうといろいろ山に通っていた。
22歳:分岐点③登山沼に嵌り始める・・・
バドミントンに釣りに登山に、いろいろと遊びまわっていた時期。
今も使っているストームクルーザーはこのころ購入。雨でも登りにいっていたw
初めてくじゅうで紅葉を見たのもこのころだった。(2016/10)
いままで紅葉に感動したことはなかったが、山全体が赤くなっていて初めて紅葉に感動した。
また、このころから同棲が始まる。
23歳:分岐点④クライミング志向に。
どっぷりと山にはまり始めたとき。
冬の冷たい雨でも登ったりしている。仕事も慣れてきたころでこのころのモットーは「よく働きよく遊ぶ」
山岳テントを購入する。大崩山の岩峰に見惚れる。下山で膝を痛める・・・・。
腸脛靭帯炎でした。筋力不足と歩行技術のなさからでした。
しばらくリハビリ生活。
山に通う日が続く。くじゅうにてテント泊デビュー(2017/10)
また、ロープワーク(ハイカー向けセルフレスキュー)を受ける。
当時はまさかこんなにも傾山に通う事になるとは思いもせず・・。(ちなみにアイゼンピッケルを使うところはなかった笑)
んで、冬の観音岩でドラツー。これまでに人工壁(リード)や、ハイキング向けのロープワーク講習を受けていた記憶。このころは「山登りでロープつかうって、どういうところに行くんだろう・・・?」というレベル。
また、そのころに外岩(本匠)デビュー。
ハードシェルを買い、冬の石鎚へ。九州で何度も冬は登っていたが石鎚は初。
半分近くうもった鳥居にわくわくする。ちなみにこの辺りはすべてK氏と。
(二人とも初心者なのでお互い試行錯誤しながら山に通っていた。今思うとこのころからちゃんと撤退ラインを決めて計画を立てていた。だから多分今も生きているんだとおもう。)
大雪警報の中、当時の自分のフル装備(メット・ハーネス・30mロープ・ATC)をもって冬の由布岳西峰に。かろうじて登れたが、下山は鎖が凍結していて持てなかった。
初めて現場で懸垂下降をすることになる。ちなみにソロ。若さだねえ・・。
多分今なら懸垂しなくてもクライムダウンできると思う。
そして、インスタで幅を利かせていた(?)登山サークル"ハードハイカーズ"に加入させてもらうことになる。分岐点⑤
山登り同級生のK山さんとは冬の石鎚や大山へ。
ハードハイカーズに冬の根子岳、大山北壁に連れて行ってもらう。
ちなみにこのころは「かついでなんぼ!」のメンタルだったので冬壁にビール6本持って行ったしコーヒーミルも持って行った。重さで足つり、喘ぎながら登ったのはよく覚えている。今ならたぶん半分の重さにできる笑
きつかったけど、あの時の北壁は素晴らしかったなぁ。(2018年3月)
24歳:沢登りデビュー
おんぶにだっこは嫌だったので(?)ひとまずソロで一番簡単そうな沢に。
選んだのは祖母山の黒金谷。見た目「行けるでしょ」な小滝もなかなかスリリング。当時の私よ。沢デビューは人と行きなさい。
それを筆頭に祖母山や、椎葉や祝子など、いろんな沢に行ったなぁ。
また、秋には鷲ヶ峰、冬には八ヶ岳(赤岳主稜・峰の松目沢)など色んなバリエーションルートに連れて行ってもらっていた。
25歳:沢にハマる。マルチデビュー
借りてばっかりだったカムを買う。当時はまだクラック思考ではなく、沢登りのために。なんで1~3を買ったんだろう(笑)
とりあえず隙間という隙間にセットして練習していたw
自立して沢に行き始めるようになったのはこのころからかな。
少しずつ「連れていく山と、連れていかれる山」の違いを意識し始める。
そして、ハードハイカーが諸事情により解散(?)するw
初級沢なら自分リーダーでも行ける様になったころなので、平日組をナンパして
沢に通うようになる。
夏には北アルプスデビュー。Twitter仲間のコタオ氏と縦走。
九州の山しか知らな自分にとって衝撃だった。
また、このころから「海外に行きたいなあぁ」とふわっと思うようになり、1年ほどワーホリで休職するぞ!と会社に根回しをしていた時期w。
そしてマルチピッチデビュー。
ここまで書いてて、ようやくマルチデビューかい!という気持ちw
K山さんにニードルに連れて行ってもらう。
元々沢から始めたので、クライミング的な不安はあるものの支点構築や懸垂は臆することなく望めた。
K山さんはもともとクライミング派で、自分は沢から始めたという感じだったので、
マルチはK山さんに連れられ、沢は自分が案内してと持ちつもたれつのような感じで色々行ってていた。
沢に、アイスに、マルチに、オールマイティーに色々登っていたころ。
何もかもが新鮮で楽しかった。
また、同棲していた彼女がキャリアアップ(医療事務➤看護師になりたい)とのことで、宮崎の学校へ。遠距離スタート。分岐点⑥
26歳:新型コロナ。今までの日常が一機になくなる。ワーホリも無しに。分岐点⑦
クライミングも山も行けず、ストレスのたまる日々。タイミング悪く?遠距離になったしね。
三密(今見ると懐かしいですね)を避け、釣りを再開。Twitter仲間とオンライン飲みや、麻雀をしていた。
それなりに自粛はしつつ、山には登っていたようだ。
沢泊をしたり、難しのマルチに行ったり。このころから黒稜会の方々とよく遊んでもらっていた。また、三倉に行きクラックの沼にハマり始める。
2020年11月、根子岳で遭難者の捜索救助を行うことになる。分岐点⑧
直前に行ったた山。初対面だったけど、山中ですれ違って立ち話した方。そして死。
ロープを出す山をするようになって、漠然と「死は間近にある」とは思っていたが、一番強烈に印象に残っている。
その日はちょうど休み。友人から「阿蘇で遭難発生。捜索救助手伝える?」と連絡が。
友人との予定をバタバタとキャンセルし、阿蘇に向かう。入山は夜。要救助者1名(滑落した方)はすでに亡くなっており、付き添いでビバークしていたもう一名を介助しながら下山。
自分たちはクライミングや沢登り等、アクセスすること自体が困難な所を遊ぶフィールドとしている。そんな中、公的な救助機関に救助してもらうことになるが、遊ぶ場所が場所だけに、救助活動が困難になること。そして人は簡単に死んでしまうこと(この時はベテランの方だったけど、懸垂下降のすっぽ抜けだった。)を痛感。
父親の死以来数年ぶりに人の死を目前にし、帰りは号泣した。
クライミングをやめようかと頭をよぎった。
でも辞めることはできなかった。
しかし、自分たちがやっていることはすぐ死のリスクがあるという事は常に意識するようになった。万が一があっても最悪の事態に陥らないようにどうするべきか?とさらに強く考えるようになった。
また、2021年2月には大山北壁-備中-大堂海岸と意味の分からないクライミングトリップ。独り身を満喫する。
27歳~28歳:クラックに傾倒する。開拓クライマーと出会う。分岐点⑨
福岡のY本氏と、宮崎のE本氏と、そしてレジェンドH井さんと開拓に通うように。
いままで自分にとってクライミングとは、「誰かが拓いたものを登る」という認識しかなかった。それにクライミングの経験も浅い。整備もしたことが無い。そんな自分にとって矢筈や比叡の再整備は「クライミングのエリアって自分たちでつくって、また残してい行かないといけないんだ」と自分のクライミング感を変える大きな1歩となった。
また、ひとしきり経験を積み、いろんなところに行くようになった年だった。
岩も沢も記録のほとんどないルートに惹かれるようになっていた。
岩は
・ムササビファミリールート、
・北壁橋井ルート
・矢筈ラプソディ
・屋久島フリーウェイ
・行縢山南壁Gルート
沢は
・境谷(市房)
・山之口谷
・ニタノオ谷
・武平谷下降
そして大滝登攀。
一見不可能であろうラインの弱点をたどり、持てるすべてを出し切って、残置をせずに、グランドアップの初見で完登する。
ロクスノにのせる?との話をしたけど投稿しなかった。今まで何度かロクスノも掲載していただいたが、それらにも引けを取らない最高の登攀だった。
元々沢登りからロープを使うようになった私はグレードにあまり執着がなく、登攀力は「登りたいところを登る」ための手段の一つでしかないことに気づく。そしてその"登りたいところ”というのは看板課題でも高難度(グレード)でもなく、ただただ見た目の美しさ・かっこよさという事に気づいた。
自分はフリークライミングはいまだにせいぜい11代しかRP出来ていない。人工壁に行けば5.12をPRするクライマーがたくさんいる中で、自分の純粋なフリークライミング力は劣っている方だ。しかし、情報が無いカッコいい所を登る為の押し引きの判断やチームが生きて帰るための細かい引き出しは少しだけあるように思う。
既存の所に行くよりも、知らないところを登りたい。という感情が芽生えるようになる。それからというもの、傾山南壁や、大崩山への開拓へと足を運ぶこととなる。
(K山さんやH井さんのプロジェクトに付き合っていた"だけ"とも取れるが、それでも未知の壁に挑むのは楽しかった。数知れず通った傾山は最高だった。
29歳
情熱も落ち着き、楽しく登る時期に。
ひとしきり九州の有名どころの沢や岩場にいき、マンネリぎみの年。
妻と同棲を始めたり、アルプスへ遠征したり等比較的のんびり過ごす。
28歳,29(2022-2023年)の振り返りはしているし省略でいいかなw
こうして振り返ってみると20代は本当に"山"だったなと思う。
山を通して色んなことを学び、育てられた。
こんなフラフラとしていた山に登っていた自分と結婚してくれた妻には感謝している。
もし最初の赴任地が博多や関東の都市部だったら、おそらく山登りなんてしないで飲み歩いたり、もっと違う人生を送っていたと思う。
何となくキャンプを始めたこと。山登りを始めた事。ハードハイカーに飛び込んだこと。職場の先輩と切磋琢磨できたこと。
与えられた条件の中で選択してきた事。出会いと別れは幾度となく繰り返したが、山を通じて様々な人に会うことができた。
その縁が、選択が積み重なって今の自分があるなと改めて思う。
本州の山への憧れは今でももちろんあるが、九州で開拓クライマーに出会い、少なからず開拓に携われたこと。書籍に名前が載ったことは誇りに思うし、お陰様でそれなりに遠征に行った時にも「あ、たかひろさんですか?」と認知して頂けていることも増えた。
戦争や疫病、円安も進み、一生涯安泰とは言えぬがそれは神のみぞ知る世界。
将来、子供が出来るかもしれないし、生涯妻と二人かもしれないし。離婚するかもしれないし、山で落ちて死ぬかもしれないし。明日事故に遭うかもしれないし。一寸先は闇。
人と比べ始めたらきりがないことはもう十分に経験したし、与えられた環境で、自分がとった選択が正解であるという信念を持ち、慎ましく毎日を過ごしていく中で、ちょっとずつ自分の人生の厚みを増して行けたらなと思う。
サンキュー、20代。よろしく、30代。